肥溜めの中に咲く...

すべてを無に帰す臭さを発明しました

憐憫と哀憐

父親とは一体何なのでしょうね。

家庭を守るとか、子を強く育てるとか、そういう画一的なものではなくて、もっと本質的な、もっと濃度の濃い、父親と定義される人々の根幹部分を、今や漠然となってしまったそのナニカを知りたかったです。

 

しかしソレを知るに至ることなく、僕は父親を捨てました。

 

我が家の父と僕

父は、酒・ギャンブル・暴力が日常にこびりついているような人で、僕は僕含め弟妹たちにそれらの毒牙が届かないかと恐怖し、日々必死に抗って生きてきました。

幼くも抗う僕に対して父はよく激高していましたが、いつも気づけば全てのヘイトは母が引き取ってくれていました。

男だからとか、長男だからとか、そういう拙い矜持を持ち合わせて何とか乗り切っているつもりでいましたが、やはり母という存在感と強大さには敵わないと感服したことを覚えています。

しかしながら父の財力で家計が成り立っていた背景もあり、母自身も中々その因果は断ち切れずにいました。

母も働きに出てはくれていましたが、3人の子供に真っ当な衣食住と教育を施すには父の財力に頼るほか無かったのが現実でした。

当時まだ10歳にも満たないながらも自身の頼りなさを痛感し、母のヘソクリから捻出してもらい空手道場に通うことを決心したことを覚えています。

まるで少年マンガの主人公のようですが、動機は父を倒すためです。

当時、空手の師範にもそれを吹聴しており、道場中が笑いに包まれたことを鮮明に記憶しています。

もちろん当の本人は大真面目でしたし、熱心に技の習得に取り組みましたが、大会で賞は取れても、我が家の悪漢を平定するなど夢のまた夢でした。

ある晩、自身の力を見誤った結果、一矢報いるどころか、何度も床に叩きつけられ、抑えつけられ、蹂躙されました。

床と父に挟まれ、涙や血や色々な体液に塗れて霞む視界に、我が子を守ろうと身を挺して父の拳を受け止める母の表情と、その光景に恐れおののく弟妹たちの表情が映り込み、完全に心が折れました。

なんて浅はかだったのだろうと。

なんの計画もなしに、ただ単に母と弟妹にトラウマを植え付けてしまった。

その長男としてあるまじき愚行に言い訳が立たず、心が折れてしまいました。

それからは一切父に逆らうことはせず、保守的に、ただただ大人しく自身の自立を待つ日々でした。

そして大学進学を機に、逃げるように実家を後にするのでした。

 

成人後の父の見え方

僕が20代後半の頃ですが、父との関係性は、幼少期から比べると幾分と改善していたと感じていました。

もちろんそれは父が改心したからというわけではないことはわかっていました。

老いるごとに体力の衰えや感情の起伏が少なくなった父と、成長するごとに渡り合える体躯や知識を蓄えた息子。

単純に男同士のパワーバランスが逆転したからだけなのかもしれません。

かと言って当時の僕としては復讐や報復などの思念は全くなく、大人になってやっと我が家の暴君と膝を突き合わせて対等に対話できるこの状況に安堵していました。

父の行動理念や思考を紐解き、納得したかったのです。

しかしながら父のヒトとしての小ささ、情けなさを相対的に知ることとなり、これほどまでに矮小な人間に屈していた幼少期の自分に落胆したことを覚えています。

 

その頃から母の熟年離婚計画は水面下で遂行していました。

それを肌で感じ取っていた父は、長男である僕を仲間へと引き入れようと必死でした。

もちろん母サイドからもそういった動きはありました。

3兄弟全員成人しているとはいえ、長男がどちらにつくかで戦況が変わると考えたのでしょう。

本心としてはもちろん母の味方です。

幼少の頃から父の悪行は自分の目で見てきましたし、その時に常に守ってくれたのは母ですから。

父のその厚顔無恥な言動には呆れもしました。

自身の悪行を貫いてくれるものだと勝手に思っていました。

そうでないとこちらとしては感情の行き場が無くなってしまう。

悪びれもせず、最後まで悪漢としての生き様を見せつけてほしかった。

とても残念に思いました。

とはいえ、ここで結論を出すことで父の感情を無駄に揺さぶり、母の計画を邪魔することになっては元も子もないと考え、あえて中立の立場をとることにしたのでした。

 

成人後の僕から見た父は驚くほど酷く矮小な存在で、憐れでした。

幼少の頃は、恐れや嫌悪などの負の感情の権化でしたが、大人の視点で見てみれば失望や憐れといった結局のところ負の感情の枠から出ることのない存在。

それが僕から父への最終評価でした。

 

父を捨てた日

僕が妻と結婚して2年ほどの月日が経過した頃です。

とうとう父と母が熟年離婚に至りました。

長い離婚調停を経て、やっとの想いで財産分与と自由を掴み取った母。

一人の女としてはとっくに我慢の限界は来ていたのでしょうが、母として子供らの将来を想い、その一歩を踏みとどまってくれていたのだと、三十路を超えた僕はこの熟年離婚のタイミングをそう解釈しました。

離婚の報告は、母からはもちろんですが、父からも個別に入っていました。

そこには、自身の至らなさや愚行を顧みる内容もありましたが、結局は僕がどちら側につくのかという思惑が浮き彫りになった文章でした。

僕と妻が結婚したタイミングは、ちょうど離婚調停のさなかだったこともあり、僕たちが結婚した事実は父に伏せていました。

とはいえいつかは父の耳にも入ることなので、そのタイミングで伝えたところ、祝儀を渡したいだとか、式の費用を出したいだとか、財産をどうするだとか。

まだ争奪戦を諦めていなかったのかと驚くと同時に、ここまで客観性を持ち合わせていない憐れな老人にかける言葉も見つからず、そのまま何も言わずに連絡を絶ちました。

家庭を捨てて生きてきた男が、妻と息子に捨てられた日となりました。

 

憐憫と哀憐

父が暴君として妻や我が子にこぶしを振るっていた年齢に追いついた今日この頃、父親という存在にふと立ち返り考え耽るシーンが増えてきました。

恐らく答えは出ません、答えを知らないので。

きっとこの先も考え続けるのだと思います。

父親としての最終形態、成功例は一体なんなのか。

我が家の父を一つのケースとして見ると、妻どころか一家全員から見捨てられるという酷く憐れな結末でした。

同情に値しないという意見もあれば、少し可哀そうという意見もあるかと思います。

父を果てなく嫌悪していた僕自身、驚くことにそのどちらの感情も同時に存在しています。

血が繋がっていた事実と、一定の財力を提供してくれたこと、ここだけが僕の中での唯一の父親の姿だったのかもしれません。

 

長男の在り方

後悔ばかりでした。

長男として、母を支え、弟妹の指標として前線に立てていたのか。

本人たちに聞いたところで労いの言葉を受けるに決まっていて、これもまた父親の定義と同等かそれ以上に一生をかけて自問自答が頭の中に漂い続けるのかもしれません。

父が一人孤独に野垂れ死んだ時、墓がどこにあるかも最早知る由もありませんが、いつか墓前でこの感情がカタルシスとなることを期待しています。

 

おわりに

現在の僕の行動指針や言動、思考などは、すべてこの過去に紐づいたものだと認識しています。

妻には全ては詳らかにしてはいません。

きっといつか僕の言動を疑問に思う時が来るはずですので、説明資料の一環として回顧録を残しました。

 

以上